- 益子の事、もえぎの事 -
【ペリー来航と益子焼。大塚平八窯の始まり】
1853年6月にペリーが来航した動乱期に益子焼は始まりました。大塚平八窯(もえぎの前身)の創業は文久2年(1862年)で益子で4番目もしくは6番目の窯元。(資料によって違う)窯の場所は、城内坂の中腹にて活動していました。この5年後の1867年に大政奉還が行われるという、幕末の激動の時代での始まりでした。
【明治期の益子と平八窯】
明治期の益子は水がめやすり鉢、土瓶などの台所用品が主な生産品目でした。明治という新たな時代を切り開き、流通体系の開拓に立ち向かう為に、「益盛社」「東京益子屋」「益子陶器会社」など資産家の出資により設立し、地場産業をけん引した時代でした。
平八窯は、土瓶・灯火具・徳利・皿・片口・土鍋等を主に生産していました。しかし、明治の末期に火災を起こしてしまい、資産を売り払いながら、一時窯元を休止する事となりました。
【関東大震災と濱田庄司】
大正時代に入ると、燃料が木炭からガスなどに変わり、台所用品も高熱に耐えられるアルミ製になるなど、益子焼の需要が激減していきました。(大正9年8月は、一ヵ月間製造中止)。
その後1923年(大正12年)の関東大震災の際、東京圏の台所用品が大量に破損したことに伴い、突然大きな需要が生まれ、生産が間に合わない程となりました。
この際、益子からは大量のお米と益子焼を義捐物資として真岡線貨物で輸送しました。
濱田庄司はこのころ英国で活動をしていましたが、急遽帰国。1930年(昭和5年)から益子に拠点を定め作陶を始めました。
【濱田庄司と益子の職人たち】
濱田は1920年に英国・セントアイヴスに渡り、翌1921年に訪れたディッチリングという小さな村(ロンドンから南に80㌔位)で染織のエセル・メーレや版画家のエリック・ギルなどと親交を深めていきました。ディッチリングは、アーツ&クラフツ運動の残像を残したアーティストコロニーとしても知られていました。
ディッチリングの地理的な位置も、益子を連想させるところがあったとも言われています。濱田は、益子の職人たちを集めては「益子を将来、手仕事村(工芸村)にしよう」という志を語ってました。
濱田庄司の活躍とともに「民藝運動」に共感する様々なジャンルの作家が益子に移住し、次第に益子が民藝運動の拠点となるようになりました。
【釜っ子とつかもとの功績】
1956年(昭和31年)横川の「峠の釜めし」の容器製造を開始したつかもとは、釜めしの売り上げ増とともに生産は月産20万個を超すようになり、町内の多数の製陶所へ外注。陶業界全体が活況になっていきました。昭和48年には年産260万個の生産をしていました。また釜っ子の生産とともに、「研究生制度」を設けて、外部からの若者を受け入れ、自由な勉強の場を与えて多くの陶工を輩出しました。
【共販センターの設立と志】
1966年(昭和41年)益子焼窯元共販センターが設立されました。設立の同志たちは「益子を買い物に来てもらえる産地にしよう」という志を抱きながら、バーゲンセールを行うなど、誘客の中心として活動しました。
1981年(昭和56年)4月NHKの「朝のフレッシュロータリー」で15分間生放送され、これがきっかけで来訪者が激増しました。これが契機となって陶器市実行委員会を設立、翌1982年(昭和57年)から「バーゲンセール」が「益子陶器市」へとなりました。
1972年には、もえぎの元会長・大塚重光が関連会社(有)向原陶器を共販センター内に設立しました。
【大塚平八商店から(株)もえぎへ】
1970年(昭和45年)11月創業4代目大塚平八が(有)大塚平八商店を設立。同時に平八窯を再興しました。
1979年(昭和54年)陶芸広場つかもと内に、笠間焼専門店「もえぎ」を設立し、
1993年(平成5年)8月(有)大塚平八商店を(株)もえぎに組織変更しました。
この時期には二子玉川高島屋SCなど
で、「益子と笠間の器展」など大規模な催事をプロデュースしました。
1995年(平成7年)10月もえぎ城内坂店を開設。店内の大部分を2週間サイクルで展示替えし、いつ行っても違うものを買うことができる店づくりをおこない、今に繋がっています。
1996年城内坂店に併設するもえぎサテライトショップを開設し、倉庫型の卸売りの店としてBtoBの中心的店舗になりました。
2009年(平成21年)1月もえぎ本店を益子町・大羽地区に開設。「大人の遊び場」づくりは、今に続いています。
2022年(令和4年)10月城内坂店サテライトショップを「moegi BASE」としてリニューアルオープン。
【東日本大震災と新型コロナの影響】
2011年(平成23年)東日本大震災は、歴史上最大の被害を益子にもたらしたと言っても過言ではないく、ほぼすべての登り窯は崩壊し、窯元の工房や販売店に陳列してある作品、倉庫の棚に収納してある作品などは、無残なくらいに破損しました。益子のお店は営業利益10数年分の在庫を一気に失ってしまいました。
コロナウイルスは2020年(令和2年)1月15日、日本で初めての感染者が確認されました。その後急速に感染拡大のため同年の陶器市は中止し、急遽「Web陶器市」を開催することとなりました。
新型コロナは当初観光客の大幅減など、大きな経済損失をもたらしましたが、SNSの急速な拡大によるオンラインでの販売増や、「ステイホームによる家庭用品の需要増」などにより、結果的に売り上げを伸ばした販売店や窯元・作家も多く、現在は陶器市や土日集中の観光地から年間を通して楽しむ「滞在型の益子」へと変容しています。
【益子、もえぎのこれから】
益子焼創生の際、先人たちは「益子の産業づくり」を志し、濱田庄司たちは「益子を手仕事村(工芸村)にすること」を語り合い、共販センター設立に関わった人々は「益子を買い物に来てもらう産地に」することを目指しました。
それぞれの時代の先人たちの想いは、今現実のものとなって益子は発展し、そして現在「益子をコト消費の町に」「滞在型の観光地に」という志をもってDMOも設立されました。
もえぎも、その一翼を担いたいと考えております。
日野原重明さん(医師)は「命とは何か?命とは『時間』なんだ。だから、かけがえのない時間を、今日一日を大切にしなければいけないんだ」そんな事を子供たちに訴え続けました。
「コト消費」も「滞在型観光地」もその大切な時間(命)を使っていただくことになることになります。
もえぎは、訪れてくれたお客様の大切な『時間』を充実させる場所でありたい。命の洗濯ができるような場所でありたい。お買い求めいただいた工芸やアートが、各家庭でハッピーな時間を演出できる。そんな作品を販売していきたいと活動しています。
仕事を通して、もえぎを支持してくださるお客様の「幸せ」を創造できる企業として今後も歩んでいきたいと思います。